みなさんは、重要無形民俗文化財を見られたことはありますか。
我が国の人々が、日常生活の中で生み出し継続してきた、衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗習慣、民俗芸能、民俗技術の中で、我が国の生活の推移の理解に欠くことのできない重要なものとして文化財保護法により国が指定したものが重要無形民俗文化財です。
文化財保護法では、指定することにより、保存継承に必要な記録の作成や伝承者の育成等について、その経費の一部を補助することができるとしています。
今回は、重要無形民俗文化財である佐伯灯籠を紹介します。
佐伯灯籠とは、祖先の冥福を祈って灯籠を飾る盆行事と五穀豊穣を祈願する神事とが結びついた、貴重な民俗文化財で、薭田野町と吉川町にまたがる旧佐伯郷に鎮座する四社の合同祭典として行われます。
この灯籠行事に用いられる灯籠は、年間の農事を現した風流灯籠五基と人形浄瑠璃の舞台ともなる台灯籠一基、多数の切子灯籠が出ることから灯籠祭りとも呼ばれ、人々に親しまれてきました。
台灯籠で演じられる人形浄瑠璃は、体長35センチほどの京雛の背中に竹串を刺して、左手で支え、二本の糸で首を操ります。右手でヒゴに直に付けられた手を操る、一人遣いの人形で、文楽人形の以前の形態を今に伝える貴重なものです。
氏子域への神輿巡行が薭田野神社に還御する夜になると、神社の鳥居前にある佐伯灯籠資料館では人形浄瑠璃の上演が最高潮に盛り上がります。神輿の還御に続いて、四社合同祭典が行われ、その後、参道では、神輿と太鼓がぶつかり合う勇壮な太鼓掛け、神輿と太鼓が追いつ追われつする灯籠追いとなり、祭りは最高潮に盛り上がるクライマックスを迎えます。
その後は、本殿前に五基の神灯籠を吊る灯籠吊り、神輿納めとなり、祭りは静かに幕をとじます。
四社の神社
佐伯灯籠を斎行するのは、薭田野町と吉川町にまたがる旧佐伯郷に鎮座する薭田野神社、御霊神社、河阿神社、若宮神社の四社です。
ここで、四社について詳しくご説明します。
薭田野神社
和銅二年(709)に丹波国守大神朝臣狛麻呂が五穀の守り神として創祀したと伝える古社です。平安時代の書物で、全国に鎮座する官社の一覧表である『延喜式』「神名帳」にも記載された式内社です。
祭神は、食物の神であり衣食住の守護神でもある、伊勢下宮の祭神と同じ神様の保食命と、山野の守り神である大山祇命、田畑の神である野椎神の三神をお祀りしています。
清和天皇の貞観元年(859)5月、気候不順により稲の生育が悪く、境内の大嘗祭用控の御供田を植付け、五個の灯籠等を捧げたと伝えます。その後、寛喜元年(1229)には、五個の御所灯籠を賜り、翌年藤原定家が勅使として参拝したと伝えます。それ以後、灯籠を中心として五穀豊穣、国家安泰の祭礼が行われるようになりました。佐伯灯籠祭には、全国でも類例の少ない、五穀の実生を御神体として神輿巡行が行われます。
御霊神社
大同元年(806)創祀と伝え、大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)と異母弟にあたる彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の二神を祭神としてお祀りしています。薭田野神社と並んで、上ノ社、下ノ社と称される神社で、貞観元年(863)に天災による悪疫が蔓延したことから、その悪疫を除くことを願い、怨霊を慰め鎮めるために祈願したと伝えられます。なお、近年の発掘調査により、神社境内に隣接した場所で、奈良時代に建立された神宮寺跡と考えられる佐伯廃寺の存在が確認されています。
河阿神社
旧佐伯郷の西に鎮座する当社は、豊玉姫命と鵜鷀草葺不合尊の二神をお祀りしています。創祀年代は不詳ですが、康平年間(1058~1065)頃に社殿が造営されたと伝えられます。山内川の上流部に鎮座し、五穀豊穣に欠かせない豊かな水の恵みを願う人々の祈りに支えられたもので、今なお境内の神域から湧き出る清水は、酷暑にも滾々と涸れることもなく湧きつづけています。その後元中八年(1391)には丹波守護であり、室町幕府の管領であった細川頼元が篤く崇敬しました。天正五年(1577)明智光秀の丹波進攻により一時衰微しましたが、慶長元年(1596)に亀山城主前田玄以が再興し、社領九町歩を寄進し、赦免地としました。
若宮神社
鎮座する出山(井出山)の地名が示すように、滾々と湧き出る泉は真名井の水で、社頭の山陰道を行き交う人々に喉の潤いと安らぎを与え、里人の田畠を潤し五穀豊穣の恵みを与え続けてきた命の水のもとに、神護景雲三年(769)の創祀と伝えられる当社は、大鷦鷯尊(仁徳天皇)を祭神としてお祀りしています。当初は多気神社として鎮祭されたと伝えられます。
寿永三年(1184)源氏の再興と平家追討のために、摂津福原に拠を構えた平家の陣に向け、搦手の総大将として源義経が駒を進め、当社で暫しの休息を取った時に腰かけた岩が、「義経の腰掛岩」と呼ばれています。また、必勝祈願をして奉納した絵馬が、寒風にあおられ他の絵馬とぶつかり、「カチ、カチ、カチ」となる音を聞いて、神のお告げだと確信したと伝えます。その後、盛衰を繰り返し、嘉慶元年(1387)に再造営され、この時に多気神社から若宮神社となったと言われます。また、宇佐八幡宮に始まる八幡信仰の広がりと共に、若宮八幡宮とも呼ばれていました。
五穀豊穣を祈願する神灯籠とは!
お盆の日に行われる佐伯灯籠は、中世の宮中で風流灯籠を贈答する盂蘭盆の行事と五穀豊穣を祈願する神事が結合した貴重な民俗文化財です。
薭田野神社では、五穀豊穣を願って、神の依り代として五穀の実生を神輿に御霊遷して、氏子域を巡行します。
祭り当日は、各家庭で「とり貝寿司」が作られます。とり貝の割れ目に三角錐のにぎりを差し込み、頭に黒ゴマをふったもので、太鼓掛けと同じように男女和合、子孫繁栄の願いが込められています。また神輿の端棒の神輿舁きの人にかじってもらったにぎりめしは、安産にご利益があるとされています。
神輿とともに巡行する五基の神灯籠は、一年の農事を千代紙や色紙でつくられた人形で表した風流灯籠です。
一番・・・「御能」 巫女が神前で能を奉納している様子を表しています。
二番・・・「種蒔き」苗代作りから種蒔きまでの様子を表しています。
三番・・・「田植え」田植えの様子を表しています。
四番・・・「脱穀・臼摺」収穫した稲の籾摺り作業や籾殻を箕で分ける様子を表しています。
五番・・・「石場搗き」豊作で家や蔵を建てる地鎮祭や地慣らしの様子を表しています。
これら五基の神灯籠に表されたように、神前の祈りに始まり種蒔き、田植え、収穫、家や蔵の普請といったように五穀豊穣の様子をあらかじめ、神前に祀って、神様にこのようになりますようにとお願いする予祝の祭りです。
佐伯灯籠のみどころとは!
人形浄瑠璃は、浄瑠璃を語る太夫、三味線、人形遣いで演じられます。この佐伯灯籠で使われる人形は、京雛の背に竹串を刺して一人で操る、一人遣いの人形で、三人遣いの文楽人形以前の古い形態を今に伝える貴重なものといわれています。
人形は、全長35㎝ほどの小さくて素朴な串人形です。京雛の背に竹串を取り付け、串で人形を支えると共に、串に組み合わせた二本の糸で首を動かし、両手は肘に直に差し込んだ竹ヒゴで操作します。首と左手は左手で、右手は右手で動かす一人遣いの素朴な人形を操るその芸態は、味わい深いものです。
人形浄瑠璃の演目とは!
人形浄瑠璃の演目は様々ですが、佐伯灯籠では、かつては多くの演目を上演していたようですが、現在は絵本太功記を始め八演目が伝承されています。
- 『艶容女舞衣』「酒屋の段」
- 『伽羅先代萩』「政岡忠義の段」
- 『傾城阿波の鳴門』「十郎兵衛住家の段」
- 『絵本太功記』「十日目、尼崎の段」
- 『御所桜堀川夜討』「三段目弁慶上使の段」
- 『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」
- 『日吉丸稚桜』「五郎助住家の段」
- 『壺坂観音霊験記』「沢市内より山の段」